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Column

松村圭一郎さんトークイベントのまとめ

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最近は以前にもまして色々と考えることが多い。
毎日本棚を眺めながら多様なことを考えているつもりなのだけれど、もしかしたらずっと一つのことについて延々と考えているような気がしなくもない。
明確ではないけれどもなんとなく漠然としたその一つのものを掴みにいくような、そんなトークイベントに先日の文化人類学者の松村圭一郎さんとの話はなったように思っている。

今回のコラムは、そのトークイベントの流れを友人がテキストに起こしてくれたので、その文章に自分の思いや感じたことを交えながらまとめてみようと思う。できるだけイベント当日に感じたものを言葉にできるように。そして、人口3万人程度の地方都市に住みながら政治との距離感を感じている人へのなんらかの手助けになることを願って。

(あくまでも個人的な主観が多分に入っているので、松村圭一郎さんの話を軸に考えた、うきはという特定の地域の状況を反映した個人的なまとめといった感じで受け取ってもらえたらと思う。)

まず最初に、今回のトークイベントの概要を把握して頂きたいので以下のイベント告知文を読んでから本文を読み進めて頂きたい。

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松村圭一郎さんトークイベント
『これからの地方自治を考える ー「くらしのアナキズム」を手がかりにー』

4月18日から4月25日の期間で行われるうきは市市議会議員選挙に合わせて、あらためて地方自治を考える会を行います。
文化人類学者の松村圭一郎さん(オンライン出演)をお迎えして、アナキズムの視点から国家や民主主義を捉えなおした松村さんの著書である「くらしのアナキズム」を手がかりに、参加者とのディスカッションを交えながらこれからの地方自治について話します。

そもそも国ってなんだ?国家とは?民主主義ってどういうこと?
自然豊かなこの土地で、政治も暮らしも健やかに生きていくにはどうしたらいいのか?
日々の暮らしのなかでの疑問や違和感、困りごとなど携えてぜひご参加ください。

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<そもそも私たちは政治へどう参加するかを学んでいない>

人生で最初に選挙を意識した時のことを覚えているだろうか?
20歳(今は18歳)になったら急に選挙権というものを与えられて、生活の外側から急に政治がやってくる。
周りの大人たちは、選挙が大事だ大事だと声を揃えて言うけれど、何がどう大事で、それが自分たちの生活にどう関わってくるかを具体的に教えてくれる人はいないし、そういうことを学校で学んでもいなければ、周りに学ぶような環境もない。
いざ選挙となってみても、家には立候補者の政策が書かれたパンフレットが届き、毎日のように選挙カーから連呼される名前がきこえてくるだけ。これでどうやって政治に関心をもてばいいのか?
政治を実感するための手段はなにもないのに、大人だったら必ず参加しなければならないとても大事なこととされている。
まったく不思議なことだ。

<日々の暮らしのなかの困りごとと政治を繋いでみる>

人類学者のデヴィッド・グレーバーは、「政策は政治ではない」という。
政策を国会議員が提出するということは、国民の100%が合意できないものを数の力で押し通すということ。引いてみれば、少数の声が通り、残りの多数派は無力感に打ちひしがれることになる。

ではなにが政治なのか?

いつもの暮らしのなかでの些細な困りごとや生活に直面する問題を解決することを政治とすれば、すでに私たちはその場(政治)に立っているのではないだろうか。
私たちは学生時代に、ルールに従うことは嫌という程教えられてきたけれども、
日々の生活の中での違和感を他者と共有して、そこから自分たちでルールを作り出していく術はほとんど教えられていない。
その状況を社会に照らし合わせた時に、私たちの戸惑いがどこにあるのかがわかってくる。

まず、ルールは何のためにあるのかを考えてみる。
それは物事の調和をとるためだったり、物事をうまく進めるためだ。
そこにいるメンバーや時代が変われば、ルールは自然と現実とそぐわなくなる。
ルールが手段だとしたら、私たちはそれを変える経験をしてこなければいけなかったのだ。その経験の無さが私たちから政治を遠ざけているのではないだろうか。

<勝ち負けではなにも決まらない>

私たちはもしかしたら政治をする機会を奪われてきたのかもしれない。
自分たちの生活と政治を結び付けないままに有権者教育として、市議会を傍聴したり、模擬投票をしたりしてきた。
何もわからないまま、選挙に行きなさい、選挙は大切だと言われて、なんとなくわかったような気で選挙に足をはこんでいた。

本来、選挙に行く動機は、私たちがどのような問題を抱えていて、それをどう解決するのかということのはず。
しかし、それらを小さくて個人的な問題に押し込めて、国家がどうだ、外交が、経済がといった大きなことが政治だと言われる。
私たちは大文字の政治(原発問題や、経済問題、防衛費など)に毒されている。

今の私たちのくらしと政治との距離が離れてしまっている。
それによって最初から関わる権利がないと誤解してしまい。投票行動から遠ざかる。

さらに、意志を持って選挙に足を運んだが、投票した候補者が負ければ敗北感を覚える。
つまり、選挙が勝ち負けになっている。
誰が勝とうが負けようがではなくこの世の中をちゃんとしてくれというのがポイントのはずだ。そう考えると結果に一喜一憂する必要はないはずだ

本来は、日々の選択の積み重ねそれ自体が政治的なふるまいを含んでいるはずではないのか。本をAmazonで買うのか町の本屋で買うのか。野菜は地元のものを選ぶのか海外から輸入されたものを選ぶのか。
実は私たちは日々の暮らしですでに政治を実践している
今日のようにトークイベントという形で一つの場所に集まって議論を交わすこともとても政治的だ。
このように、日々問題に直面し、解決することを明確にしていけば、この問題についてどう考えているんですか?と、政治家に問えるようになる。
そう考えると、選挙は、問題解決のほんの一つの手段ということがわかる。
私たちは日頃から問題解決のため現実にすでに行動しているからだ。

<”いま・ここ”という自分の足元から出発する>

(参加者のみなさんで日常のなかの困りごとを共有する時間を設けました)

参加者の皆さんのもっている言葉が政治家の言葉よりリアルに響いてくる。
それは生活という実感に根ざしているから。それを生活から離れた場所にもっていって、観念的な部分で話してしまうと右とか左の話になってしまって、意見の対立や分断を生み出してしまうことになる。

ただ、日常のなかから困りごとを探すと言うことは思ったよりも難しいことだ。
社会の中で、違和感や困りごとは声にだしにくいと感じている人はすくなくないはずだ。私たちは違和感を押し殺す、なかったことにすることばかり気にして生きてはないだろうか?
その結果困りごとに我慢をする状態は自分だけだと思い閉じこもってしまう。今まで当たり前だと思っていた違和感に向き合ってみると、それは大きな困りごとだったりもする。

いまここの、それぞれの個人の小さな声のなかから政治を考えることをはじめてみてはどうか

<共に解決する問題、具体的な他者との対話>

今までの話しから、困りごとや違和感、些細な疑問をまずは自分の外に向かって話してみることが必要だということがわかってきた。
困りごとを共有することで、私も困っているという人があらわれて、私の困りごとから、私たちの困りごとになる。
二言と三言を話すと、みんなで解決すべき問題では?と考えるようになり、じゃあ一緒になんとかしましょうということになる。
そこから共に対処する基盤のようなものが立ち上がってくる。

その為には、日々なんらかの形で、薄くてもいいので他者との関係ができているというのが大事だ。個人の中で滞っていたモヤモヤしていた問題が、人が集まるだけでスッと解決に向けて流れていくこともある。
人間は多面的な存在なので、一面では相反するかもしれないが、他面では合うことだって大いにありえる。そういう関係があることで、物事の見えなかった側面も見えてくるようになる。

例えば、今日のこの場所で共有した時間のようなものがとても大事なんじゃないかなと思う。

<場所のもつ力>

コロナ禍を経て、実際に会って話をすることができる場所のもつ力の価値が
再認識されてきたように思っている。

今日のような場が出来ることで、それがそのまま問題と解決策をつなぐ場になる可能性を含んでいる。これからは、そのような対話の場をつくっていくことが重要になる。
そして、その対話から出発した問題と解決策をつなぎ、共有して地域に広げていく。
その積み重ねこそが本来は地域の政治を形作っていくものではないだろうか。

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<最後に・松村さんからの追記>

「つなぐ」、「関係を耕す」ことがすでに政治であるとしたら、なにをテーマに人が集ってもいいんだ、ってことなんだと思います。
それこそ「選挙」をテーマにしたら、今回のように、いろんな問題意識をもった人が集まって、それはそれで仲間ができて、おもしろい。
でも「選挙」というテーマで、二の足を踏んでしまう人がいるとしたら、別に「パン」でも「本」でも、一見、政治とは無関係なトピックでも、人が集まる理由はなんでもいい。
そこで顔の見える関係が少しでも築けたら、次の問題を共有してともに対処する「政治」の動きにもつながるんではないか、と。
今後のみなさんのご活動、楽しみにしております。

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