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Column

これからの観光ってなんだろう?

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随分時間が経ってしまったのだが、6月の後半に「どげんね!うきは」の活動の一つとして行なった「どげんね!観光」についての主観的なレポート書いてみたい。

「どげんね!うきは」は、問題解決とういうよりは対話する場を立ち上げ、そこで意見の異なる人同士が話をすることで日頃のモヤモヤの実体みたいなものを炙りだし、それをどうすればスッキリできるか?を各自が自主的に探っていくような場所だとこの会で感じた。
解決はしないし、物事は平行線で交わらない。だが、納得は出来なくても理解はできる。そういった意味での分かり合うということをしていきたいのかもしれない。

「どげんね!観光」は、その名の通り、観光についての対話をする場所を作り、この町で観光に関わる活動を行なっている様々な方々に参加してもらい対話を行った。目的としては、「これからのうきはの観光について意見交換とビジョンの共有」。

まずは、「どげんね!うきは」メンバー同士で日頃観光について思っていることと、自分たちが考えるこれからの観光のあり方とはなにか?という部分を皆さんに伝えてから話を始めることに。

「どげんね!うきは」が考える観光とは、

1 持続可能であるか。人や環境に過大に負担をかけていないか。
2 歴史・文化をつなぐものであるか。地域の風土を重んじ、土着的な地域の歴史を理解したものであるか。
3 経済的に地域に恩恵をもたらすものであるか

これは、1から順に重要度が高い。なので、観光それ自体の持続可能性を第一に、次に文化と歴史、経済は最後に考えるというものだ。
まずはそれらを説明したところから、そもそも観光って必要なのか?という問題提起をして対話をはじめていく。

参加者からの意見は様々で、もちろん経済的な意味で必要だという意見や、行政の政策として観光に対し、経済的な指標で目標を設定しているのでそうなってしまうという話。また、現在の観光には違和感を持っているので何かアクションを起こしたいと思っているなどなど。
市議会議員の方も参加して頂いていたのだが、現状としてのうきは市の観光は来訪者数が増えていて、客観的にどこか問題があるとは認識されにくいので、何かを改善しようという話にはなりにくいと言う。

現状では、来訪者や経済効果など、経済的な数字が観光の主語になっている。その数字を追い求めた結果として見え隠れする疲弊していく地域のような部分に対しては皆が、なにかしらモヤモヤしている。モヤモヤするのだけれども、人が集まって経済が循環して地域が潤うのはいいことではないか。その為には多少のモヤモヤは無視してもいいのでは。そもそも行政も政策としてそのように進めているのだし。
といった感じの内容が大方の意見ではないかと思う。

ただ、注意しないといけないのが、ここで言われている「地域が潤う」という言葉は経済的な意味の中でしか効果を持たないことだ。何かのキッカケによってお金の価値が低くなる、または潤ったお金の使い道を誤るなどしたら、そこには疲弊した地域が残されるだけだろう。地域の自然や資源、人々の歴史や文化を換金可能なコンテンツとして表面化させ、経済の文脈の中に組み込もうとする昨今の風潮には違和感しかない。

そこから、会は文化庁が進めている「文化観光」に詳しい方の話に移っていく。詳しくは調べて欲しいが、観光庁による政策が経済発展の為の観光だとしたら、文化観光は、地域の文化・歴史を保存して継承していくことで観光資源として活用していこうという考え方だ。行政の中でも現在の経済を優先した、地域で消費行動をすることを目的とした観光の形には行き詰まりを感じているらしい。
この政策が観光庁ではなく、文化庁から発信されているということに何か意思を感じる。

持続可能性も大事だ、文化・歴史の保存や継承も大事だ、だからといって経済優先の観光に違和感を唱えてブレーキをかけようとするのでは中々うまくいかないのではないか?それよりも、文化観光という経済とは違った形での「価値」を創造して、その魅力を多くの人に知ってもらう。その結果として、経済優先の観光から文化観光への価値転換を促す。

なんとなくだけれども、今まで自分の中で、経済優先の観光の形をどうやって変えていくかのようなことを考えていたのだけれども、そうではなく、文化観光のように、オルタナティブな価値を持ったもう一つの観光のあり方を体現するようなものを立ち上げることによって、メインストリームの観光が持つ意味さえも書き換えていこうとする行為はとても有効なのではないかと感じた。

その為に、お金を生みだすことのない、経済の外側にある価値を、どうやって経済社会のなかで、お金を生み出すものに変換させることなく価値として認識し持続させていくか。本来ならば地域の行政機関が、経済と非経済のバランスを取りながら、地域のこれからを考えて舵を取って欲しいところだ。だが、そもそも国の地方創生や観光施策がそのような構造になっていないこと、そして、半世紀以上も経済の原理の中で動いてきた組織を変化させるのはそう簡単なことではないだろう。昨今では新しい動きとして、まちづくりNPOや官民協働での団体も多く見られるが、無自覚的に経済の原理の中で活動を展開している団体も少なくないところを見ると問題の本質は根深いと感じる。

個人の草の根での動きももちろん重要だけれども、このあたりの仕組み作りも同じく重要だ。では、どうやって?
今後も「どげんね!うきは」、「どげんね!観光」の活動を通じて考えていきたい。

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(追記1)

手作りのアジール / 青木真兵 著(晶文社)

先の文章の後半で使っている「経済の原理」や非経済、経済の外側といった表現は、この本からの影響と著者である青木さんと話したなかで考えていることだ。
奈良県東吉野村で自宅を人文系私設図書館ルチャ・リブロとして開きつつ、普段は障害者の就労支援をしている青木真兵さんは本書のなかで、「二つの原理で生きていく」ことを提唱している。
人間の生き物としての部分を大事にしながら、豊かさや幸せといった価値観が資本主義の原理によって語られるこの現実とどうやって向き合っていけばいいのか?資本の原理に対抗できる、「もう一つの原理」を取り戻すこと。暮らしのなかに、それぞれの人間性を取り戻せるようなアジール(避難所)をどうやって作っていくかが、同世代の研究者との対話を通じてそれぞれの現在地から語られている。

そこで大事なこととして言われているのが「手作りすること」。既製品の中から選ぶのではなく、本来、自然と一体である、人間の生き物としての部分「土着の知」から生みだされる「手作り」のもの。それは数値化できるものではなく、言語化、社会化さえもされない、その人特有の生き方や、場所、働き方とも言い換えることができる。

他の町での成功事例や、都市部でパッケージされたデザインや製品を持ってくるのではなく、地元の土を使って作物を作るように、本来、町や観光というものは、その場所が持つ自然的なもの、「土着の知」によって手作りするものではないだろうか。

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(追記2)

先日、自然栽培で田んぼをやっている知人宅に手伝いに何度か行かせてもらう機会があった。そこで作業をしながら聞いたことがとても印象に残っている。

肥料・農薬には頼らず植物と土の本来持つ力を引き出す永続的な農業方式である自然栽培は、ひとつの田んぼだけで出来ることではなく、周囲の田んぼはもちろん自然環境とも調和を取りながら進めていかなければならない。
そこでは、田んぼに流れてくる水のことを考え、水が流れる山や林業について考え、田んぼを通じての地域の人の繋がりについて考える。

これは、ひとつの町においても同じようなことが考えられるのではないかと思う。

当店の周辺だけで、時期はバラバラだが3店舗のカフェがオープンする話を聞いている。以前だと、カフェが増えて、カフェ目当ての人ばかりが観光と称して町に来ることに対し否定的な感情を持っていたのだが、今はすこし違っている。
この地域の地理的な特性や、土地が持っているポテンシャルが必然的に今の状態を作り出しているとしたら、抗っても仕方がないので静観しながら出来ることを淡々とやっていきたいと思う。

最近よく見ている、山田洋次監督の映画。(先述の、手作りのアジール / 青木さんの影響で見始めた)1972年の作品「故郷」のなかで、高度経済成長の波に追われ、先祖代々暮らした島を出て、新天地で暮らすことを余儀無くされる主人公が、島での最後の仕事をしながら妻に語りかける。「皆が言う、時代のながれとか、大きなものには勝てんとか、、でもそれはなんのことか?なんでわしらは大きなものに勝てんのか?なんでこの仕事をやめんといかんのか?」

今は、映画が撮られた70年代とは違って、学び知ることで、大きな流れが捉えられるようになった。流れに抗い、流れを変えようと運動したり、あるいは流れにのったり。流れと距離をとることも出来る。それぞれに適切な行動が選択出来るようになった気がしている。二項対立ではないグラデーションの中に身を置くように。ただそれも、もっと俯瞰した位置から見ると大きな流れの一部かもしれない。とも思う。

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