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Column

「観光」に関連した取材を断っていることについて深く考えてみた

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先日、お店のオープン前に電話が鳴った。
電話の相手は、福岡市内の出版社。内容は、雑誌でうきはの特集を組みたいから取材に協力してもらえないかというものだった。実は、色々と思うところがあり、1年位前から「うきは」や「観光」という括りで掲載するメディアの取材を一切断らせて頂いている。今回も、簡単に想いを伝えて断らせてもらおうとしたら、以前に何度かお世話になっている出版社だったこともあり、電話の相手から「どうして取材を断っているのですか?」という質問を受けた。

多分、相手の方は純粋に気になったのだと思う。
なぜ、そういう判断を下しているのだろう?ということが。

ただ、この質問に対して、僕は正直とても戸惑ってしまったのだ。
同じ意見を持っている人やお店のスタッフに対して想いを話すのとはすこし訳が違っていて、言葉によっては相手の仕事を否定しかねないと思いながら注意深く説明した。相手は、まぁ納得したような印象を受けたが、正直僕は違っていて、話している最中もこの説明でいいのだろうかと迷いながら話していた。話す相手が当事者同士だとこうも違ってくるのかと感じながら。

この経験があって、近いうちに自分のなかの「観光」に関連した取材を断っていることについて深く考えて整理したいと思いこの文章を書いている。

さて、ここから本題だが、この件に関する僕のあくまでも主観的な問題点は大きく2つあると思っている。
(地理的、社会的な状況や立場で問題とする内容や感じ方が変わると思うのであくまでも主観的と言わせていただきたい)

まず一つは、「観光の捉え方」の問題。
昨今、メディアで見かけるこの地域の記事の多くは、新しいお店特集や、フルーツを使ったスイーツ特集など、本来は複雑で深みのある地域の魅力を「新しい」「流行」「SNS映え」といったような分かりやすい文脈で簡略化し、消費に繋げようとする記事が目立っている。
これは、地域とメディアの双方が、観光に対する考え方の大きな部分に経済的な豊かさを求めているからだと思っている。
人が沢山きて、町が賑わい、SNSで情報を発信したりお金を使ってくれたらいい。という前提が地域とメディア間で共有されている。

当店もオープンから取材を断りはじめるまでの間は、何も疑うことなく、より多くの人に知ってもらいたい、足を運んでもらいたい、まずは知ってもらいたい、という思いでほぼ全ての取材を受けていた。それ自体は間違っていなかったと思いたいが、先に挙げたような、内容が薄く常に新しいものを求める早いサイクルでメディアが情報を発信することにより、その情報を受け取って町を訪れる人の雰囲気が年々変わってきていると感じることが増えてきた。

特に顕著なのは、地域の人やお店、魅力を雑誌を見ながらまるでスタンプラリーのように回遊して、写真をとってSNSに投稿して次々と消費していく人たち。別にそれが目的だからいいじゃん。と思うところだが、その消費の行き着く先はどこだろう?
そこには地域への敬意も愛着もないのではないだろうかと思ってしまう。地域は消費された分の金銭という対価を得るかもしれないが、その分、人やお店は疲弊していくばかりだ。
もしこれが、経済的な豊かさを求めた先にある観光のかたちなのだとしたら、僕はそこに対して異議を唱えたい。

そもそもの行政や商工会といった公的な機関が行なっている広報のあり方にも問題点はあると思うが、メディア関係の方にも今一度「観光」とはなにか?という自らが行なっている仕事の本質的な部分を考えて欲しいと思う。
もしかしたら、その取材が地域に対してネガティブな効果を与えているかもしれない。良い取材をする為にはそういった想像力はきっと必要だと思っている。

もう一つは、「取材への対価」の問題。
基本的に、取材先のお店が取材料をもらえると言うことはほとんどない。(お店をオープンして6年で1度だけあった)
これは、「お店を取材することで記事になってお客さんが増えるからメリットがありますよ」という暗黙の了解が前提にある。
ただ、「観光」や「うきは」といった、その土地の人やお店をメインのコンテンツにして記事がなりたっている場合、取材する側とされる側の関係性は対等なはずである。
そう考えると、全ての取材とまでは言わないが、もっと対価についての話が出てきてもおかしくないはずだ。なのにその話はほとんど出てくることがない。この文化はいったいいつから今の形で根付いていったのだろうか。。
もちろん記事の内容や媒体の性質などによって様々だとは思う。例えば、しっかりとインタビューを行い、お店の思いや理念を汲み取った形で記事にして頂き、メディアとして情報を発信していく姿勢が見える場合などは、「無償でも協力させて頂きます」という思いになる。

しかし、多くの「うきは」や「観光」といった括りでの取材ではそれらがあまり見られない。
お店の外観、内観、メニュー写真を撮影して簡易的な取材で表層的な部分だけを見て終わる場合がほとんどで、最近では取材もなく過去の記事の二次利用がかなり多くなってきている。

別にそれでもいいのだろうが、取材を行って出版されるまでに関わるライター、カメラマン、編集者、デザイナーなどなどほぼ全ての人に対価が払われるが、取材の核となるコンテンツであるお店側には協力という暗黙の了解のみとはどういうことだろう。
もちろん取材を受ける側も、この状況を長い間よしとしてきたという事実もその原因のひとつとしてある。

雑誌やテレビといったメディアが全盛の時代だと、いいバランスでお互いの関係性を保っていたのかもしれないが、現在は、情報が溢れていて特定のメディアが影響力を強く持つ時代ではなくなってしまった。それが、雑誌売れないから予算が減り、予算が減ったことによりコンテンツの質が下がり取材の質も下がるといった悪循環に繋がっているのかもしれない。

多分ここまでに書いた問題点の要因は複数あってとても複雑なことだと思っている。もちろん取材する側の人の戸惑いや葛藤もあるとはずだ。
ただ、このままでいいのかと言うと、それは嫌だ。では、どうするか?と考えた時に、当店では、「うきは」や「観光」という括りで掲載する取材を断るという選択をとっている。
この行動が、今までの慣習的な取材に対して、地域とメディアが少しでも違和感を持つきっかけになればと思っている。

そして、この件に関わるそれぞれの人が「観光」とはなにか?を改めて考え、経済的な豊かさを求める「観光」から、もっと別の形の、本質的な豊かさを求める「観光」へのシフトしていかなければならないのだと思っている。
今はその大きな過渡期にあって、それぞれの状況や立場によってその対応や行動は曖昧でいいと思っている。
ただ、ぼんやりとでも向かっていくその先の形が見えて、それをみんなで共有できるような町にしていけたらいいなと思う。

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